*西洋近代哲学的な唯物論的思考を続けることが、社会科学やその思想に限界を
 与えているのではないか?(マルクス主義を例にして) 
 
 「世界大恐慌」という著書で有名な、資本主義崩壊後の社会システムとして、
東洋哲学的な価値観を取り入れ、人間の精神性を大事に出来るようなプラウト社
会を提唱しているインドの経済学者、ラビバトラ氏は、日本での著書「1995
ー2010世界大恐慌」の中でマルクス思想とそれが目指す、共産主義について
次のような内容の大事な視点を書いています。

「マルクス主義は、資本主義社会の解明よって、人間の「搾取」を暴露しました
 が、それは貧富の差という、あくまでも物質的な視点のみでした。しかし、プ
 ラウトは、このような経済的搾取に加えて、知的搾取と精神的搾取も見逃しま
 せん。このような視点に立って考えたとき、共産主義国家における一党がすべ
 ての富の分配の権利を独占していることは、すなわち、党自体も国民を知的、
 精神的に搾取していることに他ならない。」

 私は、マルクスが弁証法的唯物論(史的唯物論)という世界観によって導き、
思い描いた「共産主義」という名のユートピア社会が、旧ソ連における実験で失
敗に終わった真の原因は、マルクスが人間の精神的なものと社会との関係を捉え
ず、物質的な物のみが真実だという思い込み(唯物論)によっての物質的な視点
のみでユートピアを考えたという欠陥性が「共産主義」自体に最初から内包され
ていたからではないか?と思えてならないのです。

 とすれば、「物質的な社会の環境によって人間の精神も形成される」とする、
弁証法的唯物論による世界観は、実際の世界の真理からは多かれ少なかれ、離れ
ていて、どこかおかしい(何かが欠けている?)部分がある。というようにも思
えるのです。
 私が思えることは、世界を弁証法的に捉える方法自体は、多分、間違いではな
いし、世界自体も弁証法的な発展をしていることが歴史的にも見受けられ、多分、
真理でしょうが、それを対象としている領域が物質世界のみ(唯物論的な視点の
み)であるところに、今まで、気がつかなかった(見落としていた)問題が隠さ
れているのではないか?ということで、それが、人間の思考的な視野の拡大に限
界を与えているのではないか?ということです。

 先に、「人間の五感という名のフィルター」ということを書きましたけれど、
これが、人間の世界観の視野自体も狭くさせているのではないか?いうことなの
です。つまり、これが「唯物論」や「観念論」という名の思考的なフィルターも
作り出しているのです。
 先に書いたように、現代の最先端の自然科学が見いだしつつあることは、

「世界は目に見える物質(現象)世界だけでなく、その背後にある目に見えない
 霊的(潜象)世界によっても構成され、この二つの世界は実は同元(一元)で
 あり、密接に影響しあい、つながっている。人間の意識や精神や魂もその例外
 ではないようである。それは、ミクロの世界における素粒子の振る舞いや人間
 の脳の生理学、人間の想念による物質化現象などが、それを示唆している。」

 というような事です。

 物質世界と霊的世界の源が同元であるにもかかわらず、二元的な存在に見える
のは、人間が五感という名のフィルターでもって目に見える世界と目に見えない
世界とに分け、今まで世界を見、そのように思い込んで来たからではないでしょ
うか。
 このことは、今までの社会科学の世界観の拠り所としてきた、弁証法的唯物論
はあくまでも真理の一部であり、全てではなかった。ということを示しているよ
うに思えるのです。                            
「弁証法的唯物論」が土台にしている「唯物論」はかつて、西洋の中世において、
ニュートンやダーウィンやコペルニクスといった、その当時の最先端の自然科学
や科学者が、実験や観察や計算といった新しい手法によって見いだしたこと、
すなわち、「物質世界には法則性があり、今までの迷信もその法則によって説明
できる」というような事実を人々に示し、それまでの物質世界においての人間の
迷信に基づく神秘主義的な世界観から人間を引き離し、物質世界の科学的な理解
を進め、人々は、一つ次元の高い世界観や価値観に脱皮しつつあったわけです。
 その頃、時を同じくして、それを哲学的に高めたのがデカルトだったわけです。
 デカルトは、このような、自然科学が導いた新しい世界観や価値観を取り入れ、
機械論的な唯物論を導き、物質と精神の二元論的なものを説きました。その後、
これが近代哲学や科学の元となり、物質世界の解明を大いに推し進め、人類の文
明を知的な面で進歩させました。
 そして、20世紀末の現在、この世界観や価値観はいつの間にか人々の文明的
な教義(常識)となり絶対化し、追究されましたが、その追究自体が、地球の文
明的な危機的状況の現出ともあいまって、実は、人々をさらに一段、次元の高い
新しい世界観や価値観へと導いているのです。つまり、近代哲学や科学が追求し
つづけた、物質世界の法則性の解明は、ついに、現代に至って、その根源の領域
に踏み込み始め、また、人々に新しい世界観や価値観への変革を求めているです。
 このような地球文明史的な認識に立つとき、現在の地球危機、特に、今までの
科学や思想的なものの閉塞感とその危機は、次元の高い、新しい世界観や価値観
へと進むことによって、始めて克服されるということが、みなさんお分かりにな
るだろうと思います。
 このように、今までの近代哲学や科学とその世界観や価値観は、物質世界の解
明という歴史的な役割を担い、そして今、それが霊的(精神的、潜象的)世界へ
の解明へと進ませ、それが見いだしつつある、新しい世界観や価値観によって、
高い次元へと融合(止揚)されることで、その歴史的な役割を終えようとしてい
るのです。



*地球環境破壊の地球人類の反省に基づく、人々の実践的な新しい考え方や
 価値観への流れーー「共生」思想

 今までの20世紀型の地球人類社会は、西洋の近代哲学的、唯物的な個人主義
と、そのような考え方と結びついた、資本主義的な社会、生活様式が推し進めら
れる。というようなものでした。それは、
 「個」に価値観を置き、自分が物質的に幸せになればいい、自分が大事であれ
ばいい、という人間中心的な「個」の持っている欲望の実現を、「個」と「個」
の物質的な欲望による競争という形の社会システムでもって支えることで動いて
きました。
「個」はその欲望を満たす為に、その他の「個」との物質的な欲望による競争に
明け暮れ続けました。しかし、それをいくら進めても「個」の欲望は満足出来ま
せんでした。それはこのような、「個」の物質的な欲望というものは、無尽蔵に
出てくる性格のものであって、それによって真の人間的な幸福というものは得ら
れない性格のものだったからです。
 そして、そのような、歯止めのかからない競争に明け暮れている間に、いつの
まにか「個」はその「個」が生かされている存在のこと(宇宙、地球、自然や宇
宙意識的なもの)を忘れていたのです。そのツケは、地球環境破壊となって、地
球人類の存続の危機という「個」にとって、決して無視の出来ない問題となって
現れました。それは「個」に始めて、次のようなことを気づかせたように私は思
うのです。

「「個」はその「個」が生かされている存在のことを決して無視してはいけない。
 「個」の真の幸福とは、他の「個」や、その「個」が生かされている存在の幸福
 と一致することにあるのではないか?つまり、「個」が一方的に他の「個」や
 「個」が生かされている存在の幸福を奪うことで得るような幸福は「個」にとっ
 ても、偽の幸福なのだ。このような幸福を繰り返しても真の幸福にはならない。
 そこに、「個」と他の「個」と「個」が生かされている存在との間の幸福の共
 有こそが必要である。それが全ての存在を生かすこと(存続)させることにな
 るのだ。つまり、「共生」ということが必要になる。           」
 
 この事は、目に見える世界という三次元的な世界だけで当てはまるようなこと
ではないように思えるのです。例えば、「個」という人間が、物質世界のみを真
理だと思い込むことが、実は、四次元以降(霊的、潜象)の世界の「個」を生か
している存在を否定する事で、幸福を奪っているとも言えるように思うのです。
 人間が不幸にうちひしがれる時、神的なものを求めるのは、潜在意識の中で、
本能的にそのことを知っているからではないでしょうか。
 そして、ここに、単なる物質的な欲望の充足が人間にとって、真の幸福にはな
らないということの真意(本質)が隠されているように思うのです。

 そして、もちろんこれは、三次元世界的な視野における意味でもあてはまりま
す。これを、私以外の多くの人が気づいていることに、私なりの考察も交えなが
ら「共生」という思想の全容を明らかにしてみたいと思います。
 むしろ、この方が今、正に生まれつつある「共生」思想的なものに近いように
思えるわけですけれど。

「人間の物質的な欲望の追求という人間中心主義のエゴの正当化による、地球
(宇宙も含めて)の生態系(自然)の破壊行為は、結局、人間の生命としての
 存続も無くすことになる。人間はこのことを肝に命じて、人間が生かされて
 いる存在である地球(宇宙)に感謝する心を忘れずに、このような存在との
 調和の中にこそ、人間の生命としての真の幸福があることに気づかねばなら
 ない。それによって始めて、人間は物質的な欲望の止めどない追求から開放
 され、それを原動力としている今までの経済(資本主義的なもの)の土台は
 その時、始めて原動力を失いつつ、存続不可能となってくるのである。
 それに変わって、「愛、調和、互恵」的なものが経済社会の原動力となるよ
 うな次元の高い、新しい経済社会へと可能性を切り開くことにもなるだろう。
 これは、すなわち、「地球(宇宙)との共生」の実践である。
 
 その一方で、これは人と人との間(「個」と「個」の間)にも実践されるべき
 だろう。それによって実現できる可能性のあることは、「自由」と「平等」と
 の間の調和を作り出すということであり、「自由主義」と「平等主義」(マル
 クス主義)が止揚されるという可能性です。
 これは、すなわち、「人と人との間の共生」の実践である。        」

 ここで、「人と人との間の共生」の実践について、もっと深く考察を進めてみ
たいと思います。それは、ここにも、先に紹介した社会思想の問題点克服への重
要な鍵が隠されている。と思えるからです。

 自由の追求は反対に不平等を生み、平等の追求は反対に自由を失わせる訳です
が、そこに、この「共生」的な考え方は次のようなことを教えているように思え
るのです。 
「人間が自由ばかりを追求することで、他の人間が不平等になるということの本
 質は、人間が自由という幸福を、他の人間の不平等という不幸を作る(幸福を
 奪う)ことで獲得しているという関係で、その逆も同じように言える。
 そういう関係である以上、人間の自由という幸福も、その、他の人間との幸福
 の分配のバランス(平等)との調和をとる上で、求められなければならない。
 人間の自由という社会全体の幸福の増大はそれが等しく、多くの人間に自由と
 いう幸福が分配されるように努力しなければならない。
 それが、社会全体として自由が追求されても、不平等にはならないということ
 の実践になるのである。
 今までの、「個」と「個」の間の競争による「個」の自由の増大というもの
 (資本主義的、すなわち、競争主義的な自由主義)の本質は、「個」の自由と
 いう幸福の増大が、他の「個」の幸福を奪うことでの増大でしかないことです。
 それは、「個」と「個」の間の自由という幸福の奪い合いそのものであり、
 そこには必然的に、多くの幸福を獲得した「個」とそうでない「個」との間の
 不平等が現れるという、本質的な限界があるわけで、そこには何も、調和は無
 いのである。                             」 
  
 そして、これは、多数決(数の論理)至上的な、今の民主主義についても同じ
ようなことが言えるのではないでしょうか?
 それの弊害が、少数派の意思(意見)の中で、それが客観的に見て正しいもの
で、意思決定のプロセスの場(例えば、議会)に上げるべきものであっても、
すでに、多数決によって決められ、正当化されている他の意思(意見)に阻まれ
て、この少数派の意思(意見)が捨てられるという、現実に起こっているような
事です。
 このような事が起こるのは、私達が「多数決で決まることが全て正しく、それ
は正当化できる」という価値観で民主主義を運営しているからではないでしょう
か?しかし、今まで見てきた「共生」的な考え方から見れば、これは、
 多数の「個」が少数の「個」の意思の反映を殺している(生かされていない)
事で、幸福を奪っている事であるわけです。そこには決して調和は生まれない事
が皆さん、お分かりだろうと思います。
 それの克服が、意思決定のプロセスの場においては、その意思(意見)の出所
が、多数派からのものであろうと、少数派からのものであろうと、それぞれの
意思(意見)を平等に(等しく)扱うようにするべきで、単に多数派からの意思
だからと意思集約の時点でそれを正当化し、少数派意思を排除するのは間違いで
あり、多数決はあくまでも、意思集約後の意思決定プロセスの一つの手段に過ぎ
ない。ということにあるように思えるわけです。
 それは、多数決(数の論理)至上的な民主主義から、共生的な民主主義への移
行とでも言えるようなことです。

 私の、以前の、「地球危機克服への政治経済」の考察のなかで、今までの情報
の受け身型で一方通行型の、テレビやラジオといったマスメディアと違う、パソ
コン通信やインターネットといった、情報の双方向コミュニケーション型の新し
いマスメディアを利用することによる、直接民主主義の可能性について触れたわ
けですけれど、その直接民主主義も、単なる、今までの多数決至上的な民主主義
の拡大であれば、いっそうの不調和の拡大になる可能性が大であり、何の意味も
ないわけです。そして、共生的な民主主義を土台とした、直接民主主義を目指す
ことが、真の民主主義の発展につながり、人間社会全体の幸福の増大につながる
のではないでしょうか? 
  
 ところで、日本の政界においては、昨年の秋に、鳩山由紀夫氏や菅直人氏が中
心となって新党「民主党」が結成されました。党名こそ、何か古風な感じはする
ものの、党の政治理念として目指しているものを見ると(FNETDの方にアップ
されていた文章を見る限りでは)まさに、21世紀の新しい政治経済を先取りする
ような理念だなという印象です。
 その中で、特に、鳩山氏が掲げている「友愛」の理念が、「人と人との間の共生」
と、近いような感じが直観的にするのです。
(鳩山家について書いた、ある本を見ると、この「友愛」は由紀夫氏の祖父の一郎
 元首相が提唱したのだそうです。その意味は「自己の尊厳を確立すると同時に、
 他者の人格を尊重しなければならない」ということの様です。)
 


*新しい科学的認識アプローチの方法としての「複雑系」の科学

 サンマーク出版発行の雑誌「エヴァ」の創刊号と二月号で「複雑系」の科学
という、科学的な認識の方法論においての、今までとは違う画期的なものにつ
いて紹介されています。非常に興味深く、これも重要な鍵なので、これを最後
に皆さんに紹介しておきたいと思います
 
 創刊号での、日本物理学会会長の米沢富美子、慶応義塾大教授をインタビュー
した記事の中で、科学の最先端の現場では今、次のようなことが起こっているの
だそうです。(長いので、要点だけ紹介します)

「(1)これまで、科学的な認識のアプローチの中心とされてきた要素還元論だけ
    では理解できない側面があること。
 (2)これまでは、決定論的な因果関係は予測可能だと暗黙のうちに考えられて
    いたけれども、決定論的なものの中にも予測不可能なものがあること。
 
 (1)について、要素還元論というのは、簡単に言えば、「どのようなもので
  も最小部分にまで分解し、詳しく分析していけば、その分析したものの全体
  の性質や仕組みが理解できるはずだ」というようなこと(もちろん、これは
  今までの、唯物論的な機械論的世界観から来ている訳ですが)です。
  物理学での物質が出来ている最小単位の追究でクオークを発見したことや、
  生物学でのDNAの発見はこの成果であるわけですが、この方法では分析で
  きないこともある。例えば、動物の群れを見ると一匹一匹は少しずつ色々な
  方向に動きはするが、群れ全体としては一つの方向にあたかも生物のごとく
  整然と動くが、群れの動きを分析する為に、その中の一匹だけを取り出して
  調べても何もわからない。この場合は、一匹がすぐ近くにいる仲間の動きに
  反応して自分の速度や方向を決めている。
  このような、一つ一つの要素の相互作用によって系全体の性質が決まり、そ
  れがさらに要素の相互作用を生んでいく。という構図を「複雑系」と呼んで
  いる。「複雑系」では、要素に分けるだけではなく、全体を包括的に捉えな
  いと理解できない。

 (2)について、決定論も近代科学の中心的な考え方で、例えばニュートンの
  運動方程式に見られるように、ある物質がどの位置にあって、どれくらいの
  速度を持っているかという初期条件が決まりさえすれば、後は方程式によっ
  てその物質の動きは未来永劫にわたって決まる、と考える。実際、物質の運
  動はそれが当てはまるので、科学者達はそれが全てにおいて当てはまると思
  い込んでいた。しかし、気象学者ローレンツのコンピュータでの奇妙な計算
  結果が元となって、カオス理論というものが生まれてから、科学者達は、そ
  うではなさそうだということに気づくこととなった。カオス理論は、単純な
  ものから複雑さが生まれることを示すと同時に、複雑さの中に単純な秩序が
  あることも発見した。                        」
 
 二月号では、複雑系の科学が誕生したアメリカのサンタフェ研究所の奮闘と
その科学の内容を書いた著書、「M・ミッチェルワールドロップ著「複雑系」
新潮社 刊」の翻訳者である、科学ジャーナリストの田中三彦氏の話の記事が
あり、彼は次のようにつけ加えています。

「 あえて複雑系の特徴をいえば、
(1)未来予測が出来ないもの
(2)非線形システムであるもの
(3)非平衡であるもの      の三つになるでしょう。

 (1)は、例えば、世界の経済市場の動向は、数式では予測できません。
 それは、数億人という人間の勝手な行動に左右されるからです。 
 (2)の非線形とは、1+1が2にはならず、4にも7にもなってしまう
 システムのことをいいます。これも、計算では予測不可能なのです。
 気象予測などがこの範疇に入ります。
 (3)の非平衡ですが、これは躍動し、日々変化し続けるこの世界そのものと
 もいえます。例えば、非平衡モデルとはまったく逆の平衡モデルは永遠です。
 そこには時間の経過もなければ、誕生も死もありません。こんな現実にはあり
 えない世界が、従来の科学の研究対象だったのです。ところが実際の世の中は、
 生命にせよ文明にせよ、壊れては新しくなる繰り返しでしょう。当然、科学の
 手に負えない問題も出てくるんです。でも科学者はそれに対してはどうやって
 アプローチしていったらいいのかがわからなかった。
 つまり、この3つの特徴を持つものは、科学で扱うことが非常に困難だったも
 のなのです。       

 このことによって、「複雑系」で、ソ連の崩壊の理由だとか、株の急落の理由
 だとか、生命進化の仕組みだとか、生命とは何か、心とは何かという大命題だ
 とかが、捉えられる可能性があるのです。特に、生命、心とは何か、という問
 題は従来は哲学の領域でした。しかし、複雑系では、科学として取り扱ってい
 こうとしているのです。                        」


 私も、全くそのとおりだろうという印象です。「複雑系」の科学は自然科学は
もちろんのこと、社会科学においても、どんどん応用されていくべきで、それに
よって人間社会が宇宙、地球、自然、人と人との間の調和の取れたような、今ま
で以上により良いものにする為の、具体的な社会システムの方向性とその内容が
見いだされるのではないでしょうか?
 そして、もう一つ重要なのは、複雑系の科学が人間(人間以外の生命も全て含
めて)の心や思いといった精神が世界に働きかける作用と、今までの物質世界の
法則性との双方をつなぎ、包括的に捉えることで、物質世界的な視点を越れるよ
うな一つの突破口的なものだと言えるということです。
 
 このように、私達の意識変革、新しい価値観としての「共生」的な考え方と
精神的なものも包括的に捉える「複雑系」の科学が、社会科学においては、
資本主義とも共産主義とも違うような、この新しい価値観が土台となった具体
的な新しい社会システムを生み出すためや、自然科学においても、物質世界以
外の世界(精神的、霊的、潜象的な世界)の解明へと進むための一つの強力な
武器(道具)として生まれています。

 最後に、このような、未来に向けての明るい兆しは、他でもない、私達が地球
の危機的な状況を直視し、今までの常識や価値観や世界観を問い直し、生かされ
ていることに気づき、英知を注ぐことで、私達、自らが見いだし、作り出しつつ
あることなのです。
 そのような意味で、地球の危機的な状況は、私達、地球人類にとっては、一つ
の試練であり、必要悪であるのかもしれません。


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