題名:今までの思想と地球危機  1997年1月作成  FSHISOにて発表


*地球危機の進展の中での人々の新しい価値観への目覚め

 20世紀の今まで、私達が営んできた地球文明はここに来て、未曽有の問題を
投げかけています。環境破壊、核戦争の恐怖、食糧とエネルギー不足の危機、
政治腐敗、等々・・・。 
 
 一方で、そのような人々の地球危機への自覚が、その反省の上に立った「地球
との共生」を大事にする意識を生み出しています。
 そして、科学者達も物質世界を追究していけばいくほど、目に見えないもう一
つの世界(霊的世界、潜象世界)とこの世界とが密接に関連しあい、地球の生命
が存在し、人類文明も存在しているということに気づかされています。

 この新しい意識の変化が、現文明の問題点の考察に新たな視点を与え、今まで見
えていなかったものが、見えてきています。
 この発見は、危機に瀕している今までの20世紀型地球人類文明の根幹をなして
きた価値観や世界観といったものを、高い次元で再構築させ、地球危機の克服可能
な新しい文明に脱皮させる可能性を秘めていると思います。
 
 その発見的ともいえるものとは何でしょうか?

 まず、現代科学において見えてきているものがあります。 

 素粒子物理学での、量子力学、「超ひも理論」等が示唆している内容、つまり、
素粒子レベルのミクロの世界では、エネルギーによって素粒子の発生と消滅が自
由自在に起こっていたり、一つの素粒子が同時に二つの穴を通ったりするという、
日常世界では理解しがたい、素粒子が「幽霊」のような振る舞いを示すことです。

 そして、この世に存在する物理的な全ての力(重力、電磁気力、核力など)が
統一出来る物理学理論への追究の果てに見いだされた「超ひも理論」が、実は、
「宇宙は高次元(10次元もしくは26次元)で出来ており、四次元以降の高い
 次元の部分は、10のマイナス33乗cmという超極微の世界にマカロニ状のご
 とくたたみこまれ、この超極微の世界では時間、空間、物質といったものが存在
 しないであろう。」という驚くべきことを示唆しているという事実があります。
 
 また、これらが示唆している事が「般若心経」や「色即是空」というような、
宗教や東洋哲学の中での教えと一致するという事実があることです。 
  
 私は、直観的にこのように感じるわけです・・・
「地球の人類と文明が危機的状況になった真の原因は、宇宙の真理であると、
 私には思える「愛」「調和」「創造やその主的なものの存在」というような
 ものから、人類が外れたことをこの地球上で行ってきたことそのものではない
 のか?
 そういうことを行わせてきた、私達、地球人類の思想、価値観、常識そのもの
 といったものが今、問われている・・・。                」
  
 その、思想、価値観、常識といったものの根源には、我々の今までの哲学観が
流れているように思います。
 それが、西洋の中世ルネサンス以降、世界中(特に先進諸国)に広まっていっ
た、デカルト以来の二元論的唯物論的近代哲学観による価値観、世界観です。
 この、「二元論的唯物論」は、生命を機械的なものとして捉え、魂といったも
のを無視し、その生命も偶然の成り行きによって生まれたものだとすることで、
結果的に、宇宙の創造主的な存在(私がイメージするのは、今までの宗教で言う
ところの、人格化された神のことではなく、創造の力となる宇宙エネルギー体そ
のものというようなものです。宇宙意識といってもいいかもしれません。このよ
うな存在の人格化というのは、霊的な科学性を持ちえなかった、今までの宗教が
作り出したものです)を無視してきました。
 このように、この哲学観自体が、初めから、先に書いた宇宙の真理というよう
なものから外れているということが解ると思います。

 現在の主要な科学思想のほとんどは、この哲学観を出発点にしていて、それぞ
れの思想のなかに、それが流れています。
 自然科学では「ダーウィン進化論」等で、
 社会科学では「資本主義」や「共産主義」等に代表されるものだと思います。

 これから、それらを見ていきたいと思います。


*「進化論」と「創造論」

 今まで、ダーウィン進化論に代表される考え方のように、地球上の生命は地球
上の無機物が物理的なある条件下で偶然に有機物に変わり、DNAが生まれ、生
命が発生し、生物はすべて偶然的な要素によって進化してきた。というのが科学
の常識(これは、まあ、少し極端ですが)とされてきました。

 しかし、この科学的常識は、人間の霊的な問いかけ、つまり、人間がこの世に
生を受けている意味や価値は何か、といったものには答えられない。
 この常識を信奉する人々は、「人間は単なる偶然の産物なので、それならば、
死んだらすべてが終わりなので、今の人生をこの世的なものでエンジョイしよう。」
というように、物質、金銭欲というようなこの世的な欲ばかりに走ることになった。
(それが、結果的に経済至上主義を生み、地球環境破壊を生んできたのは言うまで
もありません。)
 
 その一方で、このような科学では答えられない、霊的な問いかけを、人々は宗
教に求めることになった。
 この答え的なものとして、今までの地球上の宗教が用意したものの中の一つに
「聖書」の創世記に書かれている内容、つまり、人間(と宇宙)は神により創造
された。とする、キリスト教的な「創造論」があります。
 しかし、この考え方は、あくまでも、聖書の記述がすべてであり、宇宙の創造
主的な存在を、人格化した一人の神として、信仰を強いるというような前提の中
での思考であって、宗教的な閉鎖性を克服していない。
 つまり、聖書という記述から離れて人々が自由に神というような存在を科学的
に思考することを妨げている。
 そこに、宇宙の真理から離れ、形式化、形骸化した宗教的教義を信じなければ
救われず、信者は救われてきたけれども、地球人類文明全体は救ってこれなかっ
たという、今までの地球上の諸宗教の限界があります。
 
 本来、過去の地球上の宗教というのは、宇宙の真理をキリストや仏陀を初めと
する過去の大覚者、聖者達が、人々に実生活での倫理的、実践的な教えとして説
いてきたものだろうと私は思います。
 しかし、その宗教的教えはあくまでも宇宙の真理の一部ではあるが、全てでは
ないという点を人々は、その宗教的教え(教義)を絶対視する過程の中で忘れて
いるのではないでしょうか?
 何故かといいますと、やはり大覚者、聖者といえども人間であるので、宇宙の
真理を人間の理解できる次元のレベルに落とす過程で、その大覚者、聖者の霊的
な教えの個性的なズレのようなものがあるからだろうと私は思えるからです。
 それを、人々(信者)がある一つの宗教の中の教えが全ての真理だと思い込み、
その教えに固執し、絶対視することで、宗教の違いというものを決定的なものに
していると思えるのです。                          
 それが、揚げ句の果てに、宗教戦争を引き起こしてきました。

 つまり、宗教の違いというものは、人間が作り出している、宇宙の真理の本質
から見れば架空の(意味がない)ものだということを、私達は認識するべきでは 
ないでしょうか? 

 そこで本題に戻りますが、宇宙が「この世」以外に「あの世」によっても構成
されているとすれば、「この世」しか見ない科学による「進化論」も、「あの世」
的なものも扱いはするが、慣習や形式的な考え方に支配され科学性を持たない、
キリスト教的「創造論」そのどちらも真理の一部は含まれてはいるが、真理では
ないと言えるのではないでしょうか。
 だから、「進化論」「創造論」のどちらが正しいかということではなく、どち
らも正しい部分も含まれているし、間違っている部分も含まれていると私には思
えるのです。
 
 そこで、皆さん、一度、このようなダーウィン「進化論」のような科学常識や
信者の方は、聖書に書いてあることが全てであるという思い込みを捨てて、心を
白紙の状態にして、自分の心で考えて(心に問いかけて)みていただきたいのです。
 
 人間が世界というものを捉えるとき、人間の五感(視覚、聴覚、触覚、味覚、
温覚)を介しています。視覚一つとってみても、それによって捉えられる範囲は
電磁波という波動の中の可視光線の波長の領域でしかないのです。
 だから、当然、そのような「人間の五感」という名のフィルターに捉えられな
い存在があってもおかしくないわけです。
 
人間は今まで、このような「人間の五感」という名のフィルターで捉えられる
ものを「物質」と呼び、捉えられないものを「精神や魂や心や波動」といった、
「霊的なもの」と呼んできたにすぎないのではないでしょうか? 

 とすれば、これらのものの源が全て同じ(一元)であっても何ら、不思議はな
いわけです。それは、最先端の物質科学で見えてきている事でもあります。
 人間が今まで考えてきた、世界は「物質」と「精神」の二元的なものに帰され
るとする考え方は、意味を成さないことに気づくと思います。
 それは、「物質」と「精神」という区別自体が、「人間の五感」という名のフ
ィルターによる、人間が作り出した区別そのものであって、世界の真理を言って
いるわけではないからです。

 人間はこのような、フィルターをかけて世界を捉えるために、「物質や生命と
して捉えられる世界や存在が全ての真理である」と思い込んでしまうのです。
 宗教においての、世界(宇宙)の創造主的な存在の人格化と絶対化も、このよ
うな、人間の「フィルターによる思い込み」がそうさせて来たのではないでしょ
うか?
 
 人間が、このような「フィルターによる思い込み」から開放された時、
「進化論」と「創造論」の考え方の違いというのは、人間の世界観の狭さが作り
出したものだということに気がつくと思います。
 それはどちらも真理を含んでいて、同元のものであって、同じ真理を、このよ
うな「フィルターによる思い込み」によって区別した、別々の視点によって見て
いるために、あたかも全く別々の考え方のように見えているだけなのです。

 これは、哲学での「唯物論」と「観念論」という考え方の立場の違いというこ
とについても全く同じ事が言えるのではないかと私には思えるのです。
 つまり、今までの哲学も、このような人間の「フィルターによる思い込み」が
「感覚」「理性」「観念」といったものの概念に分けて考えてきた為に、長い間、
哲学的な大きな二つの考え方の立場「唯物論」「観念論」という対立となって現
れてきたのではないでしょうか?
 これについても、私はどちらも真理の一部を言っており、どちらが正しいかと
いうことではない。と思えるのです。
 人間が、「フィルターによる思い込み」に気づくとき、「唯物論」「観念論」
が、人類の哲学史上、初めて止揚し、高い次元で融合されたような、新しい哲学
が生まれるのではないでしょうか? また、そのような可能性を秘めています。

 このことについて、私は、もっと深く考察してみたいのですが、今の私には
勉強不足なので、このメッセージを読んでいらっしゃる学者や研究者の方々に、
譲りたいと思います。
 

 
*資本主義と共産(社会)主義

 今まで、地球上のほとんどの経済(社会)学者達が、地球の人間社会の根底に
流れている社会的法則を見いだすためや、その社会の現実を分析するために、彼
らが当たり前のように使ってきた哲学的な方法論があるようです。 
 それは、ヘーゲルという哲学者の「弁証法」という論理学的な思考方法を取り入
れ、確立された「弁証法的唯物論」という世界観での見方です。

 これは、単なる唯物論(機械論的な)が、
「世界は物質から出来ており、神もなく、目的もないものならば、我々人間は物
質の運動の法則のまにまに動かされているだけなので、特に努力するということ
に何の意味もないじゃないか。」
という、人間の社会の進歩や人生観に対して消極的な価値観を導きます。
 それに対して、弁証法的唯物論はまだ進歩性があると言え、次のような考え方
です。
「世界は物質の運動ではあるからと言っても、人間のこの世界に対する働きかけ
によって世界はさらに変化していくものであり、世界をはっきりと知るためにも
人間はただ考えを巡らしているだけではだめなので、観察とか実験とか生活上の
失敗や成功などの実践を通して真理に近づく他に方法はない。
 人間の歴史は、世界を人間にとって住みよい方向に変革していくにあり、その
正しい変革の方向は、世界が必然的に動いている方向に沿うものでなければなら
ない。そうでない変革、つまり、世界の歴史的な流れ(潮流)を無視した、我々
が自分勝手に計画する実践は失敗に終わる。」

 このような世界観でもって、経済社会の人間にとってよりよい方向への変革と
現実社会の分析を最初におしすすめたのが、カールマルクスでした。 
 マルクスは、彼の生きた19世紀のヨーロッパにおける、産業革命から離陸し
たばかりの初期的な資本主義社会の中に、物質や金銭的に持てるもの(資本家)
と持たざるもの(労働者)という物質的な不平等が存在し、それが社会的な人間
の苦しみを生み出しているということを直視し、それが何故おこるのかというこ
とと、それを克服するための社会は歴史的な流れのなかでどのように用意されて
いくのかということを物質的、経済学的に追究しました。彼の思想は次のような
ものだろうと思います。

「それは、資本家が労働者に対して払う賃金の中に未払いの賃金が存在し、それ
が資本家の富になる(剰余価値論)という搾取の拡大再生産が貧富の差を生み出
しており、また、人々の経済活動の動機が個人的な金銭欲や物欲を原動力とした
勝手な非計画的な個人的な生産であるにもかかわらず、それが社会的な生産にな
っており、そこに色々な社会的な矛盾の問題が生じている一方で、その生産の供
給を唯一調節しているのが市場価格機構であるけれども、それは、景気の変動や
恐慌を伴う不完全なものである。
 だから、このような社会を変革する為には、労働者階級が国家の権力を把握し、
物財の生産を資本家に任せるのではなく、国家によって計画的な生産を行うよう
にするべきである(計画経済論)とし、それによって、労働者は経済的な搾取か
ら開放され、経済的、物質的に平等な社会が実現されるだろう。としている。
 また、そのような社会への実現は、資本主義社会が極限まで進められたときに
おのずとからその体制の内に準備されていく。(史的唯物論)」      

 このように、ひとことで言えば、「資本主義」というのは、人々の経済活動の
動機が金銭や物欲によるもので、そのようなものが原動力になっている社会であ
るということで、そのような社会の金銭、物質的(資産的)な不平等の問題を克
服し、人間の労働が直接社会のためになるような社会のありかたとして提起され
たのが、「社会主義」であり、その高次の段階としての「共産主義」であったわ
けであり、このような代表的な社会思想を打ち立てたのが、主にマルクスやその
系統としてのマルクス主義であったわけです。


*「自由主義」と「平等主義」(マルクス主義)について

 「自由主義」(リベラリズム)というのは、元々、18世紀の西欧において、
宗教戦争などの宗教的な迫害が人間社会を不幸にしているという視点から、まず、
人間は世界の人々の宗教や文化や生き方の違いに対して寛容でなければならない。
という考え方から出発しました。そして、その崇高な考え方は、西欧人の西洋哲
学の個人主義的な価値観による影響をうけ、「他人の生き方に対して干渉せず、
無関心になると同時に、自分の生き方に対しても他人に干渉されず、無関心であ
ってほしい」というような考え方(個人主義的自由主義)に変わり、近代の欧米
人達は実践してきました。

 その一方で、マルクス主義は、資産的な平等ということに価値観を置く面もあ
るので、「平等主義」と呼んでも良いように思います。
 マルクス主義は、このような、個人主義的自由主義を、利己主義(エゴイズム)
と捉えました。それは、前の考え方が、社会全体のことよりも自分の利害を優先
するような状況を社会に生み出していたからです。そして、共産主義的な社会改
造として、主にソ連で実践されました。しかし、その結果は、確かに、資産的な
平等は前進しましたが、その大きな代償として、人間的な自由が経済面でも政治
面でも明らかに失われ、計画経済は機能せず、物不足に至り、国民は耐え切れず
に、ついにこの制度は崩壊してしまいました。 

 このように、「自由」と「平等」とは相反(こちらを立てればあちらが立たず)
の関係になってしまうということを今までの歴史は教えています。


*「民主主義」の中の多数決(数の論理)の問題の克服の必要性とそのような社
 会の縮図としての「いじめ」問題

 誤解のないように書いておきますけど、私は、民主主義の「独裁者ではなく、
民衆(国民)一人一人の意見によって政治が運営されなければならない」という
崇高な考え方そのものを否定するわけでは全くありません。
 問題にしたいのは、現実に今の日本で行われている「民主主義」という美語の
下に巧妙に隠れている「多数決」(数の論理)という意思決定のプロセスのあり
方についてです。これは、言うまでもなく、政界で行われてきた「永田町の論理」
として現れていますし、企業の従業員全体の給料を少しずつ下げることで痛みを
分かち合うのではなく、いかにも無能そうな従業員を切り捨てることで、少数を
殺し、多数を生かす、企業の「リストラ」や世間一般の「赤信号みんなで渡れば
怖くない」というシャレにも現れています。
 この構図が、実は、最近問題になっている小、中学生の「いじめ」にもはっき
りと現れているようです。それは、
「大勢で一人の子をいじめる」という、「多数の正当化」対「少数の不当化」と
いうことが、子どもたちの間で平気で行われていることです。
 つまり、数の論理という大人社会のひずみの縮図が子どもの「いじめ」の中に
現れているのです。      

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 このように、今までの代表的な近代思想とその限界について見てきました。

 そこで、ようやく本題に入りますが、私は、これらの今までの近代的な思想の
中に共通して何かが欠けているものがあるように思えるのです。それを私達が今
目覚め始めている新しい価値観において考察し、認識しないかぎり、突破口は
見いだせないように思えるのです。

 では、それを私なりに考察してみたいと思います。

***続きがあります。次のページへ***
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