地球危機克服への政治経済(第三弾)   1998,7,20
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{ はじめに }

 三年前発表した「地球危機克服への政治経済(第一弾)」、一昨年発表した「地
球危機克服への政治経済(第二弾)」では、私が注目した研究者の著書を紹介しな
がら、現在の政治経済システム(アメリカを中心とする、資本主義的なシステムや
旧ソ連型の共産主義的なシステム)が引き起こしてきた、地球環境問題、人間社会
の歪み(貧富の差、個の抑圧、人心の荒廃等)の克服を目指すための新しい政治経
済システムとはどのような方向性なのか?ということを考察してみました。
 今回は、この考察で見えてきた方向性をもとに、さらに具体的な、一つの社会思
想(理念)の形として、私なりにこの方向性を高め、その提示を試みてみたいと思
います。



【1】 現在の地球と地球人類文明の閉塞的、危機的状況の克服を目指すための地球
   人類の新しい文明の再構築に向けての胎動


@ 世界でいち早く現在の地球文明の閉塞的、危機的状況の文明史的意味を予見した
  アメリカの未来学者、アルビントフラー氏

 アルビントフラー氏は、現在の文明が終焉を迎えつつあり、それに変わって、パ
ラダイムシフトと共に新しい文明に移行しようとしているということを世界でいち
早く予見した、ジャーナリスト出身の著名なアメリカの未来学者です。
 氏は、「第三の波」という独自の視点で現在の文明を捉え、分析することで、今
まで見えてこなかった未来への文明の必然的な変化を見通し、明らかにしてきまし
た。「未来の衝撃」「第三の波」「パワーシフト」等の氏の代表的な著作は有名で
す。氏の文明の歴史に対しての捉え方には常に次のような一貫した視点が流れてい
ます。
 それは、ここ一万年程の地球人類の歴史の中における文明の変革の段階を、農業
革命という「第一の波」、産業革命という「第二の波」、そして新しい情報化革命
という「第三の波」という視点で捉えている事です。現在の地球の文明の危機的状
況の現出を、今までのこの第二の波に基づく社会と、新しい第三の波に基づく社会
の価値観や世界観の衝突として捉えることで、現在の文明の危機の歴史的意味を明
らかにしたわけです。
 氏のこの捉え方は、文明の「物理的、技術的変化」ともいうべき視点に力点を置
いていると言えます。
 私は、一昨年発表した「地球危機克服への政治経済(第二弾)」の中では、この
危機の歴史的意味を地球人類の、今までの価値観や世界観の限界という視点に力点
を置いて深く考察してみたわけです。
 そこで解ることは、危機克服に向けての私と同じ結論をトフラー氏は、すでに2
0年近くも前から「第三の波」等の著書で、この文明の「物理的、技術的変化」と
いう視点における表現で見通していたといえることです。
 つまり、氏の表現で言う、「第二の波」社会(これは今までの資本主義諸国、共
産(社会)主義諸国も共にあてはまる)と新しく生まれようとしている「第三の波」
社会との衝突が意味するところは、人間の意識変革というレベルでは、私の表現で
言う、今までの近代唯物論的機械論的価値観や世界観と新しい価値観や世界観との
衝突そのものの反映であるわけです。
 この新しい「第三の波」社会の価値観や世界観になろうとしているものの方向性
は「第二の波」社会で捨て去られた「第一の波」社会の世界観や価値観の良い部分
を「第二の波」社会でもたらされたそれと共に、科学的に高い次元で止揚したもの
となるように思います。
 その止揚された新しい価値観や世界観とはどのようなものなのでしょうか?それ
を次に考察してみます。




A 新しい価値観や世界観の流れの方向性を見いだすための一つのキーワード
  ーーー「共生」的な、新しい倫理観、価値観、世界観

 「地球危機克服への政治経済(第二弾)」では、資本主義も共産主義もその土台
としているものは、近代の二元論的機械論的唯物論的な価値観や世界観、人間観で
あって、それを反映し、人間の個というものを単なる社会の歯車(顔のないマス)
としてしか見なかったり、人間が生かされている存在のことを無視し、人間が自然
を支配したり、人間が人間同士を支配するようなシステムを生み出した。それが、
現在の様々な、地球危機的とも言える諸問題を生み出している。
 だから、その克服のためには、今までの価値観や世界観とは違う、新しい価値観
や世界観を土台としたような社会システムを生み出さなければならない。また、そ
の新しい価値観や世界観といったものは、地球危機の進展の中での地球人類の価値
観の反省や物質科学の根源領域への踏み込みの中での発見によって、すでに生まれ
てきている。というようなことを書きました。

 そして、その新しい価値観や世界観の中心的な考え方の流れが、「共生」的な考
え方なのだろうと私は思います。
 この「共生」という言葉は、元々は生態学で使われている言葉で、個々の異なる
生物同士が害を及ぼし合わずに接触しあって生活し、お互いに利益を与え合ってい
るような生物の生活の関係のことを意味しています。これは、ヤドカリとイソギン
チャク、アブラムシと蟻、といった個々の生物の間に見られるし、地球の生態系全
体で見ても、食物連鎖のようなつながりのなかで、このような、生物同士の「共
生」関係が見られ、それによって地球の生態系全体の調和が保たれているという真
理が見られます。
 例えば、魚のような動物は、非常に多くの群れで整然と変化に富んで移動します
が、群れの中の魚の一匹一匹は群れ全体がこれからどの方向で、どのくらいのス
ピードで移動するのかをいちいち、一匹の群れのボスのような存在に情報を与えら
れて移動しているのではなく、一匹一匹がそれぞれ近くにいる仲間の移動の状態を
見ながら自分も合わせているわけですが、このような群れの中では、群れ全体がこ
れからどのような方向に、どのくらいのスピードで移動したいかという意思決定は
自然に、群れを構成している全部の魚の刻々と変化している意思が少しでも多く一
致した点の一つの意思が主導して、群れ全体の行動を決めています。
 つまり、この中では一種の「民主主義」が成立しているわけです。
 そこで、群れの魚達のそれぞれがもし完全に自分勝手に泳ごうとすれば群れはバ
ラバラになってしまいます。群れを崩さないためには魚達はある程度の意思の協調
が求められます。
そこで、この中の一匹の魚の気持ちというものを考えてみます。
 彼が自分勝手に泳ぎ(これは、利己主義的な自由を意味する)群れから離れよう
としないのは、彼が群れの中にはいれば自分の身を守るのに有利だということを
知っているからです。単独で行動すればそれだけ天敵に狙われる危険性が高くなり
ます。つまり、自分勝手に行動することは結局、自分を危険にさらす不幸という形
で自分にふりかかってくるということを知っているからではないでしょうか?
 しかし、このような群れの社会の中では、彼は、群れの一匹のボスのような存在
(人間社会における、独裁者)にすべてを命令され、完全に自由を奪われることは
ありません。彼は、群れ全体の行動の意思決定に参加し、それと協調するという形
で持って、「全体と調和させる自由」を実践しているわけです。

 「共生」的な社会関係は、このようなある種の動物や植物の社会関係にみられる
だけではなく、広い意味では、地球全体の生態系にも見られます。食物連鎖という
ものでさえもある意味ではそうだと言えます。確かに、食われた動物や植物は死に
ますが、それは決して無駄死にしたのではなく、それを食物とした動物を生かして
います。地球の動物達は大抵、獲物を大事に食べて決して無駄にはしません。私は
そうすることで動物達は感謝を示しているようにも思えるのです。
 深く考察すれば、このように、地球の生態系に学べる「共生」の思想というもの
は、「生き物を殺してはならない」という、単なる「不殺生」だけの思想ではない
のだと思います。
 その本質は、その価値基準に「生命が霊性的に生かされるか、そうでないか」と
いう霊性(スピリチュアリティー)的な視点が含まれていることです。
 つまり、霊性的に生かされるとは「その生命のこの世における目的、役割を全う
する(霊格の進歩)のにプラスになったのか?」ということのように思います。 
 このように、今までの「世界は目に見える世界だけが全てである」という世界観
(近代唯物論的世界観)によって、「生命は何の意味もなく偶然にこの世界に生ま
れた存在である」とする人間の考え方がいかに真理とかけ離れているのかというこ
とを、地球の生態系は人間にシステムでもって示しているのだと私は思います。
 それは次のような事だと思います。
「人間は何の意味もなく宇宙に存在している訳ではなく、それは偶然に生まれた存
 在でもない。宇宙には、人間の目には見えないが、宇宙に法則性や調和、創造性
 を与えている霊的な力、意識(エネルギー)が存在している。宇宙自体も偶然に
 生まれた存在ではなく、このような存在の力がしだいに今ある宇宙の姿を形成さ
 せてきたのである。このような存在の力が人間の存在にも、意味と役割を与えて
 いる。地球もまた、このような存在の力によって形成され、地球の生態系もこの
 ような存在が司る力を反映しているシステムなのである。地球人類は、このよう
 な存在の力を認識し、地球の生態系や宇宙の法則性に添った生き方をしない限り、
 存続もできないし、真の幸福(霊性的、精神的な幸福)も得られないのである。」

 では、その霊性的な視点である「共生」的な倫理観、価値観とはどのようなもの
なのでしょうか?それを私なりに「個」という視点で考えてみます。

 今までの20世紀型の地球人類社会は、西洋の近代哲学的、唯物的な個人主義
 と、そのような考え方と結びついた、資本主義的な社会、生活様式が推し進め
 られる。というようなものでした。
 それは「個」に価値観を置き、自分が物質的に幸せになればいい、自分が大事
 であればいい、という人間中心的な「個」の持っている欲望の実現を、「個」
 と「個」の物質的な欲望による競争という形の社会システムでもって支えるこ
 とで動いてきました。
 「個」はその欲望を満たす為に、その他の「個」との物質的な欲望による競争
 に明け暮れ続けました。しかし、それをいくら進めても「個」の欲望は満足出
 来ませんでした。それはこのような、「個」の物質的な欲望というものは、無
 尽蔵に出てくる性格のものであって、それによって真の人間的な幸福というも
 のは得られない性格のものだったからです。
 そして、そのような、歯止めのかからない競争に明け暮れている間に、いつの
 まにか「個」はその「個」が生かされている存在のこと(宇宙、地球、自然や
 宇宙意識的なもの)を忘れていたのです。そのツケは、地球環境破壊となって、
 地球人類の存続の危機という「個」にとって、決して無視の出来ない問題とな
 って現れました。それは「個」に始めて、次のようなことを気づかせたように
 私は思うのです。

「「個」はその「個」が生かされている存在のことを決して無視してはいけない。
 「個」の真の幸福とは、他の「個」や、その「個」が生かされている存在の幸
 福と一致することにあるのではないか?つまり、「個」が一方的に他の「個」
 や「個」が生かされている存在の幸福を奪うことで得るような幸福は「個」に
 とっても、偽の幸福なのだ。このような幸福を繰り返しても真の幸福にはなら
 ない。そこに、「個」と他の「個」と「個」が生かされている存在との間の幸
 福の共有こそが必要である。それが全ての存在を生かすこと(存続)させるこ
 とになるのだ。つまり、「共生」ということが必要になる。       」   
 この事は、目に見える世界という三次元的な世界だけで当てはまるようなこと
 ではないように思えるのです。例えば、「個」という人間が、物質世界のみを
 真理だと思い込むことが、実は、四次元以降(霊的、潜象)の世界の「個」を
 生かしている存在を否定する事で、幸福を奪っているとも言えるように思うの
 です。
 人間が不幸にうちひしがれる時、神的なものを求めるのは、潜在意識の中で、
 本能的にそのことを知っているからではないでしょうか。
 そして、ここに、単なる物質的な欲望の充足が人間にとって、真の幸福にはな
 らないということの真意(本質)が隠されているように思うのです。
 
 その一方で、これは人と人との間(「個」と「個」の間)にも実践されるべき
 でしょう。それによって実現できる可能性のあることは、「自由」と「平等」
 との間の調和を作り出すということであり、「自由主義」と「平等主義」(マ
 ルクス主義)が止揚されるという可能性です。
 ここで、「人と人との間の共生」の実践について、もっと深く考察を進めてみ
 たいと思います。
 自由の追求は反対に不平等を生み、平等の追求は反対に自由を失わせる訳です
 が、そこに、この「共生」は次のようなことを教えているように思えるのです。 

「人間が自由ばかりを追求することで、他の人間が不平等になるということの本
 質は、人間が自由という幸福を、他の人間の不平等という不幸を作る(幸福を
 奪う)ことで獲得しているという関係で、その逆も同じように言える。
 そういう関係である以上、人間の自由という幸福も、その、他の人間との幸福
 の分配のバランス(平等)との調和をとる上で、求められなければならない。
 人間の自由という社会全体の幸福の増大はそれが等しく、多くの人間に自由と
 いう幸福が分配されるように努力しなければならない。
 それが、社会全体として自由が追求されても、不平等にはならないということ
 の実践になるのである。
 今までの、「個」と「個」の間の競争による「個」の自由の増大というもの
 (資本主義的、すなわち、競争主義的な自由主義)の本質は、「個」の自由と
 いう幸福の増大が、他の「個」の幸福を奪うことでの増大でしかないことです。
 それは、「個」と「個」の間の自由という幸福の奪い合いそのものであり、
 そこには必然的に、多くの幸福を獲得した「個」とそうでない「個」との間の
 不平等が現れるという、本質的な限界があるわけで、そこには何も、調和は無
 いのである。                             」 
  
 そして、これは、多数決(数の論理)至上的な、今までの民主主義についても
 同じようなことが言えるのではないでしょうか?
 それの弊害が、少数派の意思(意見)の中で、それが客観的に見て正しいもの
 で、意思決定のプロセスの場(例えば、議会)に上げるべきものであっても、
 すでに、多数決によって決められ、正当化されている他の意思(意見)に阻ま
 れて、この少数派の意思(意見)が捨てられるという、現実に起こっているよ
 うな事です。
 このような事が起こるのは、私達が「多数決で決まることが全て正しく、それ
 は正当化できる」という価値観で民主主義を運営しているからではないでしょ
 うか?しかし、今まで見てきた「共生」的な考え方から見れば、これは、
 多数の「個」が少数の「個」の意思の反映を殺している(生かされていない)
 事で、幸福を奪っている事であるわけです。そこには決して調和は生まれない
 事が解るだろうと思います。
 それの克服が、意思決定のプロセスの場においては、その意思(意見)の出所
 が、多数派からのものであろうと、少数派からのものであろうと、それぞれの
 意思(意見)を平等に(等しく)扱うようにするべきで、単に多数派からの意
 思だからと意思集約の時点でそれを正当化し、少数派意思を排除するのは間違
 いであり、多数決はあくまでも、意思集約後の意思決定プロセスの一つの手段
 に過ぎない。ということにあるように思えるわけです。
 それは、多数決(数の論理)至上的な民主主義から、共生的な民主主義への移
 行とでも言えるようなことです。

 今、求められているのは、このような新しい倫理観、価値観、世界観が地球人類
社会(政治経済)に貫かれ、そのような人間の生き方が可能となるような、新しい
社会システムを再構築することです。
 今まで資本主義諸国も社会主義諸国もそれぞれ克服しがたい問題を抱えてきまし
た。前者では物質至上主義、拝金主義による人心の荒廃とそれが止めどない力と
なって起こる大量生産大量消費による地球環境破壊等。後者では国家の中央集権的
命令的政治経済システムによって起こる、国民の社会的自由の喪失と経済の停滞等
-----。
 この問題点に共通していることは、これらの社会システムが近代唯物論的世界観、
価値観以外のものを排除したシステムであるということです。この排除されたもの
とは、「人間の精神性、霊性(スピリチュアリティ)」です。
 近代唯物論的世界観は「目に見える世界だけが真理の全てである」と考えるた
め、先に書いた、「人間の目に見えない世界での、宇宙に法則性や調和、創造性を
与えている霊的な力、意識の存在」を否定し、認識の対象外とし、排除しようとし
ます。人間の存在の価値観は単なる「物質的な存在」として貶められてしまいま
す。そのような世界観や価値観を土台とした、今までの社会システムが、人間を単
なる社会システムの一部品(顔のないマス)としてしか扱えないものにしか進歩出
来なかった原因がここにあります。当然、そのような社会では人間の精神的、霊性
的な幸福や進歩は抑圧される訳です。このような人間の精神的、霊性的性質の抑圧
は今までの資本主義諸国も共産(社会)主義諸国も共に克服できずにいます。

 私は、地球の人類社会に「人間の精神性、霊性」の回復を目指すためにはこのよ
うな新しい倫理観、価値観、世界観に裏付けられた実践的思想、すなわち「共生」
的な思想が土台となったような、新しい社会システムが必要だと考えます。



B 共生的な倫理観、価値観の社会の経済的分野においての実践思想として具現化さ
せているとも言える、ラビバトラ氏の「プラウト」経済社会像

 ラビバトラ氏はインド出身の、アメリカのサザンメソジスト大学の経済学教授で、
現在の資本主義社会は徐々に崩壊し、それに変わる、新しい経済社会が生まれてく
ると予見し、その変わるべき新しい経済社会像「プラウト」を提唱していることで
有名です。
 この「プラウト」については氏の幾つかの著書の中でたびたび触れられて来たの
で、(現在、既刊の著書のなかで一番詳しく書かれているのは「JAPAN繁栄へ
の回帰」総合法令刊 です。)それらを総合してみると、
 「プラウト」(PROUT)とは Progressive Utilization Theory の略語で
「地球上のあらゆる資源を、進歩の力によって効率よく役立たせるための理論」と
いうような意味です。しかし、それは単に物質的な次元だけのものではありません。

 まず、「プラウト」の哲学観は、ラビバトラ氏の師であったP・Rサーカー師が
説くところによると、人間を生存させる側面には次の三つがあると考えます。
 それは、物理的な側面、知的な側面、精神的(霊的)な側面です。
 物理的な側面とは、人間の肉体とそれをこの地球上で生かしてくれる自然や自然
の産物のことです。
 知的な側面とは、そうした物理的な人間の生存を少しでも快適に、喜ばしく、無
理なくまっとうに出来るように、人間自身が考え、自然に働きかけてこれを改善し
ようとする能力のことです。
 この能力の発達ということにあてはまるのが、いわゆる科学技術の発達ですが、
例えば、それによってもたらされている核融合技術は、戦争の為の技術として水素
爆弾に利用されれば人類滅亡の危険性というネガティブな側面が生まれ、核融合発
電等の文明のエネルギー源として利用されれば人類のエネルギー問題の解決への貢
献の可能性というポジティブな側面が生まれるわけです。この、水素爆弾に使うと
いう、ネガティブな側面の顕在化を阻止しているのが、人間の倫理や道徳といった
精神的(霊的)な側面によるコントロールです。
 このように、物理的な側面や知的な側面の発達という、物質的な領域の発達とい
うことにおいて貫かれている法則は、必ずボジティブなものとネガティブなものが
共に生まれるという、閉鎖系にあるといいます。例えば、物理的な側面でも、物体
の運動における作用と反作用の関係に見られるわけです。
 それに対して、精神的(霊的)な側面の発達には、このようなネガティブなもの
は生まれず、ポジティブなものが生まれるのみであるといいます。つまり、精神的
(霊的)な領域は開放系にあるといいます。
 つまり、人間の精神的(霊的)な側面によって裏づけられ、方向づけられた(コ
ントロールされた)物理的、知的な側面の発達のみがポジティブの側面を顕在化さ
せ、ネガティブの側面の顕在化を抑制することが出来る、すなわち真の意味での進
歩をもたらすことができるわけです。「プラウト」の言う、進歩とはこのことを意
味します。そこで、「プラウト」は、科学技術の発達によるネガティブな側面の副
作用(副産物)の発生を防ぐために、人間の精神的(霊的)な側面の発達とその対
抗技術の開発を行わせることを重視するわけです。

 そして、「プラウト」は次のような経済社会のあり方を打ち出します。
まず、その理念は経済社会全体に均衡をもたらすこと(均衡経済)です。人々が物
理的、知的、精神的(霊的)にバランスの取れた生活を送れるようにするためには、
個人や社会にとっての有効な様々な資源を最大限に活用することが必要である。と
し、その資源の性質も、物理的資源、知的資源、精神的(霊的)資源に分けられる
としている。(人間を生存させる為に必要な三つの側面とは、言い方を変えれば、
経済学的な視点で言う、「資源」と捉えることが出来るからです)


 まず、一つめは労働市場での均衡をはかるために、国民総所得の「合理的分配」
が行われなければならない。としています。
 それは、誰でも自由に好きなだけ持てる者は持てるだけ持てるという貧富の差の
拡大を野放しにするような不平等な分配や、それとは反対の、勤勉かどうかにかか
わらずみんな均一に平等に分配するといった完全な平等(悪平等)分配とは違い、
一人一人が最低限必要な衣・食・住・教育・医療を十分まかなえるだけの所得が分
配されるべきである。という考え方で、政府はこのレベルの維持に必要な所得額を
しっかり計算し、その根拠に基づいて法定最低賃金を設定すべきであるとしていま
す。そして、勤労者の労働力の価値や質や努力の高低に応じた報酬額の変化という
意味での賃金の差の存在はむしろ好ましいが、その根拠とは無関係な、その本質が
資本家搾取的な動機に基づくものでしかないものによって作り出された極端な賃金
格差(例えばアメリカでの企業に見られる、平社員と社長との間の甚だしい賃金格
差のような)の存在は無くすような政策を取るべきであるとし、バトラ氏は、その
最低賃金と最高賃金の差の適正レベルは、人間の脳が通常では10%程しか使って
いないということを例にとって、10倍ぐらいが好ましいのではないか?と提言し
ています。その結果、政府の低所得者への生活補助金といった、社会福祉関係の予
算の膨張も抑えることができるメリットも出てくるとも述べています。このように、
そこに流れているのは、人間の欲望に基づくものではなく、低所得者を基準に据え
た必要性に基づいた所得の分配がなされるべきであるという、単なる、物質的な意
味を越えた、精神的(霊的)な意味での「均衡」(バランス)をも目指すという、
「プラウト」の高い精神性です。


 二つめは、国家レベルでの需要と供給の均衡をはかるために、一国内のある産業
分野の特化経済と国際間の分業貿易的な自由貿易をなくすべきであるという意味で
の産業構造の分散多様化です。
 それは、国内の産業分野において、第一次産業(農・林・漁・鉱業)と第二次産
業(製造・建設業)と第三次産業(情報・サービス業)がそれぞれ欠けることなく
バランスよく存在し、高付加価値産業と低付加価値産業が均衡経済を生む割合でバ
ランスよく存在していれば、経済の需要と供給を一致させ、資源の無駄づかいを無
くし、労働者の賃金も最大限に上昇すると述べています。氏は次のように説明しま
す。
「1970年までほとんどの国の経済は分散多様化されていた。しかしその後、し
 だいに特化を始めた。カナダとオーストラリアは鉱業と農業に、アメリカは農業
 とサービス業に、そして日本は製造業に力を入れ、それらの産業への特化が始ま
 った。日本は高い付加価値の産業に偏り、アメリカ・カナダ・オーストラリアは
 低い付加価値の産業に力を注いでいったのである。当然ながら日本は他の先進国
 より早く成長することになった。1973年以降、アメリカとオーストラリアの
 実質賃金は低下しはじめた。日本は税引前の実質賃金はわずかに上昇し、税引後
 は低下したのである。この議論の教訓は、たとえ国が高い付加価値製品を重要視
 しようとも、特定の産業に特化が起きることで、労働者は損をするということで
 ある。1970年代前半以降、生産性の向上は税引後の賃金を引き上げることは
 なく、日本においてさえ生産性は上昇したにもかかわらず実質賃金は低下したの
 である。
 経済を分散多様化することを奨励する別のポイントとして、製造業の世界規模で
 の競争があげられる。製造業は農業やサービス業と比較すると付加価値が高いの
 で多くの国は製造業を維持したがる。したがってアメリカはたとえ質が劣ってい
 ようと日本に米国産自動車を輸入するよう求めるのである。今や全ての国が製造
 業に特別に力を入れることは不可能である。なぜなら各国の余剰生産分を吸収す
 るだけの需要は世界にはないからである。自動車産業がこの良い例である。日本
 の自動車産業の年間生産台数は1000万台であり、アメリカでは1800万台
 である。しかしアメリカと日本の自動車需要の合計は2000万台にすぎない。
 結局、両国の生産余力は800万台である。これが両国の現在の賃金が伸び悩む
 一つの理由である。これは膨大な資本の無駄遣いであり、その資本はもっと他の
 ことに活用することができたのである。」(「JAPAN繁栄への回帰」77〜
 79ページ)  
 また、氏は自由貿易の問題点を自由貿易推進派の主張を検証しながら次のように
 説明します。
「自由貿易推進派の方々は、自由貿易を推進する理由として「比較優位性」をあげ
 る。その主張は、全ての国は最も生産性が高い産業に特化し、他の製品は輸入す
 べきであるという。そうすることで、世界各国はその生産性を高め、世界全体と
 して自由貿易の恩恵を享受しているというのである。
 しかし、この議論にはその「仮定」に問題がある。この理論は産業間に賃金格差
 がないことを仮定しているので、自由貿易によって輸入部門に失業が発生しても
 労働者は輸出部門に就業できることになる。その国に高い生産力があれば、その
 国の人々は少なくとも長期的には利益を享受できるといえる。しかし、現実には
 産業別に賃金格差がある。もし好況産業より不況産業の賃金が高いということに
 なれば、その国には高賃金産業が低賃金産業に取って代わられるという問題が起
 きることになる。これは現実に、北米・オーストラリア・英国に起きている問題
 なのである。
 自由貿易に関する第二の問題としては、多国籍企業の自給行為があげられる。現
 在は世界中に安い輸入品が溢れ、低賃金の国に工場建設が進められている。だか
 ら生産と雇用は自国から海外に向けられることになり、その結果として自国では
 低賃金産業しか残らないという現象が起こる。こうして、多国籍企業の海外流出
 を防ごうとすれば、低賃金の国からの輸入を止めなければならないという結論に
 達する。これに対し自由貿易論者は、保護貿易は保護措置によって製品価格の上
 昇を招き、消費者の利益を逆に損なうことになるのではないかと反論する。
 この議論は真実味が無く、それを危惧する必要はない。なぜなら、保護貿易は確
 かに物価の上昇があり得るが、それと同時に賃金も大きく上昇するからである。
 消費者とは自らがまずは労働者であり、そして消費者なのだ。そして実質賃金は
 価格の変化による調整を受けることになるから、自由貿易により産業の空洞化が
 起こって実質賃金が下がれば消費が伸び悩むことになるのである。通常、賃金や
 給与は毎年上昇する。現代の経済において実質賃金の下落とは、賃金の上昇が物
 価の上昇に追いつかない状態になり、その結果、賃金労働者の購買力が落ち込む
 ことである。価格の低い輸入品によって国内の製造業が低迷すると賃金の上昇が
 物価の上昇に追いつかなくなることは、歴史を見れば明らかである。たしかに自
 由貿易は価格の上昇を抑えるが、それ以上に賃金の上昇を抑えることになるので
 ある。このように、実質賃金が下落すれば消費が落ち込むことになるので、自由
 貿易からもたらされる価格の下落は賃金の下落によって相殺されることになるの
 である。
 自由貿易に関する第三の問題は「現実からの乖離」である。自由貿易は、政府が
 ”かすみ(霞)を食って生きる”(関税等の税収には頼らない)ことを前提とす
 る。しかし多くの政府は、過去に輸入品に関税をかけることによって歳入の一部
 を賄ってきた。アメリカを例に挙げれば、1913年の関税による歳入は、税収
 全体の60%にのぼっていた。その当時、自由貿易推進派は、これらの関税を撤
 廃するか減額しようとし、税収を補うために所得税が採用されるべきであると主
 張した。そしてその所得税も最大で7%としたのである。そして、この年に自由
 貿易が採用され、所得税も7%以下に設定された。しかし、1919年までに所
 得税は66%にまで達する事になったのである。自由貿易が採用されれば関税が
 撤廃され、価格が下落し、たしかに消費者は喜ぶだろう。ただしあくまでもこれ
 は政府が”かすみを食って生きられれば”の話であり、結局は所得税が上昇する
 だけの話ではないかと思われる。
 そこで、関税をかけるに際して次の二つの論拠が挙げられる。一つ目は、関税は
 安い輸入品から自国内の付加価値の高い産業を守るために採用されるべきだとい
 う点。二つ目は、関税を消費税や所得税などの他の税の代わりに導入できるなら
 ば、という点である。この考えは、その国が国際的競争の中でじゅうぶん生き残
 っていけるよう、全ての産業のために関税がかけられるべきだということを示し
 ている。」( 同上 117〜120ページ)
 
 そして、氏は、このような分業貿易的な自由貿易をなくすことは、分業化により
膨大な量となった貿易のための物資の運送にかかるエネルギー資源の節約にもなり、
地球環境浄化にも貢献するとも述べています。

***続きがあります。次のページへ***
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